台湾茶の歴史

18世紀

「諸羅県誌」によると、台湾中南部の海抜800メートル以上の山地には、野生の茶木が生え、その芽を摘んで簡単にお茶を加工して、自家用として飲んでいた村民がいました 。

その他の文献には、十八世紀の初め、日月潭一帯ではお茶の加工が行われていて、役人による製茶方法の講習を受けた村民が製茶を行っていたと言います。

西暦1800年ごろ

柯朝氏が福建省の武夷山から茶木を持ち込んだもので、最初は台北県の瑞芳地区に栽培し始めたという歴史の記載(台湾通史)がありましたが、同じ頃に茶畑の売買に関する契約書は最近見つかりました。

西暦1855年頃

林鳳池氏が福建省から清心烏龍茶の苗を台湾に持ち込んで今の南投県の凍頂山で栽培し始めました。その後、凍頂山で生産された烏龍茶を「凍頂烏龍茶」と言います。

西暦1966年頃

台湾の茶葉がアモイ港から米国やオーストラリアヘ翰出されるようになると、その品質と製茶技術のレベルの高さが、米国巾場で評判になりました。

西暦1875年頃

張氏兄弟が福建省の鉄観音を台湾に持ち込んで台北の木柵で栽培し、後ほどこの地方で生産されたお茶を木柵鉄観音と言われます。

日本植民時代

福建省から伝わった茶木のほかに、日本政府により優良品種として指定した青心烏龍、青心大有、大葉烏龍、硬枝紅心の4大品種が奨励されました。

茶園の総面積は、最盛期で4万6千ヘクタールに至りました。

台湾茶の研究が盛んでいました。奧村氏を始め三浦氏、木村氏は数多くの研究成果を残しました。また、この時期、台湾でのお茶栽培、製造、販売の過程において企業的な経営手法が導入されました。

戦後

茶木の改良、様々な淹れ方の導入、商品の多種化、お茶栽培の奨励等によって、台湾に大きな外貨をもたらした歴史があった台湾茶は輸出がメインでしたが、内需拡大によって多くの台湾人が飲むようになりました。

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